「50周年記念」ページヘッダー画像

50th Anniv.

50th Anniversary

おかげさまで、森川製作所は
2018年4月1日に、50周年を迎えました。

はじめに

ベーゴマの写真

昨年、森川製作所が創立50周年を迎えたのを機に、これまでの切削加工技術の開発をはじめとした経営の歴史および森川製作所の理念、トップの経営哲学、創業100年に向けての課題等を後世に伝えることが責務であると考えて記したものである。
振り返れば、若干23歳の時に、大手企業からスピンアウトし、親類の軒先をお借りして、小型旋盤1台で起業したのが当社の起源である。
また、少年時に、最強のベーゴマを作ろうと、ヤスリでベーゴマの真円度を出すために“創意・工夫”し、これを成し追げた“達成感 ”がこの世界に身を置くきっかけとなった。

ベーゴマの写真

以降、常に、世界の先端技術の開発動向、これに関連したハイテク事業を手がける企業を模索・リサーチし、実際にそうした企業や研究機関を訪ねて、新事業に挑戦してきた。したがって、今日に至る半世紀は、顧客から託された技術課題に挑戦し、これを解決する日々だった。こうしたプロセスにおいて、会社の技術が向上し、スタッフの実力もレベルアップした。
また、技術、実力の向上とともに、景気に左右されることなく、計画的に設備投資を行った。最先端の工作機械はもとより、同じくトップレベルの測定・検査製置を欠かさずに設備した。
超精密加工の場合、工程毎に、加工精度をチェックしなければならず、求められる精度が高まれば、それに対応した測定・検査が不可欠となるからだ。

思うに、半世紀にわたって、中小企業が高度集積するこの分野で生き延びてきたことは、私の負けん気や決して諦めない性格、難しい仕事程“燃える個性”が、この仕事に適していたのだろう。
そして、社内の人たちの努力と協力、仕事を与えて下さった顧客によって、支えられてきた。改めて、感謝申し上げる。
それに、決して、忘れられないのは、資金が乏しい創業時に、何かと、援助して下さった親類の叔父さん、お婆さんの優しさである。
こうした援助がなかったら、創業時でつまずいていただろう。ありがとうございました。

なお、本文の執筆に際し、協力をいただいた日刊工業新聞社参与(当時)の石上明男氏、同新聞社千葉支局長(当時)の篠瀬祥子氏、同新開社OBの会田長一郎氏、それに、森川製作所の大谷法子氏(現社長)、中村仁氏、徳永伸男氏(現取締役)の面々に感謝申し上げる。

令和元年(2019年)8月 森川製作所社長(現会長)
森川 孝行

盛大に行われた50周年祝賀会

創立50周年記念・新工場落成披露祝賀会

創立50周年記念・新工場落成披露祝賀会

2018年11月15日。快晴
人口1万人強の千葉県白子町で、切削ナノ加工技術でグローバル・ニッチトップの森川製作所の創立50周年記念・新工場落成披露祝賀会が盛大に行われた。

会場となった同町のホテル「青松庭 白砂」には、日本を代表するハイテク企業の経営者ら約150名が参集。同社の創立50周年を祝った。

白子町といえば、九十九里のイワシ漁の発祥の地であり、今日ではテニスのメッカとして知られるが、この日ばかりは、世界の“最先端技術コミュニティー”に変貌した。

祝賀会の会場となった「青松庭 白砂」

祝賀会の会場となった「青松庭 白砂」

演壇上で挨拶する森川社長

演壇上で挨拶する森川社長(現会長)

祝賀会に先立ち、挨拶に立った森川孝行社長は創業からの50年を振り返りながら、感謝を述べた。

この謝辞の中に、“森川経営”の真髄が垣間見られた。
「本日は、ご多忙中にもかかわらず、遠方より、弊社の50周年記念式典ならびに新工場落成披露にご出席をいただき、まことに、ありがとうございます。
私がこの仕事に携わったのは23歳の時です。右も左も分からない中、皆さまのご指導、ご鞭撻により、本日、50年を迎えることができました。
この場をお借りし、改めて、厚くお礼申し上げます。この半世紀の間、私を育てて下さいまして、ありがとうございました」
「今日までを振り返りますと、4回ほど、主要取引先が変わり、その都度、手がける製品も変化しました。よくぞ、ここまでやって来たと痛感しています。
会社を始めた1、2年は、ペンチレス旅盤で小さな電子部品を作っておりました。ブレスの金型メーカーから、プレス金型をやってみないかと言われ、少し経験がありましたので、その金型を7、8年やりました。そうこうしている内に10年がたちました。
従業員も増えたことから、地元に優良電子部品メーカーがありましたので、そこへ営業に行きました。大変、忙しく仕事をされており、すぐに仕事をいただきました。この仕事は10年間続きました。これにより、今日の弊社の成長基盤が確立したと思います。大変、感謝しております」

2018年11月15日。快晴
人口1万人強の千葉県白子町で、切削ナノ加工技術でグローバル・ニッチトップの森川製作所の創立50周年記念・新工場落成披露祝賀会が盛大に行われた。

会場となった同町のホテル「青松庭 白砂」には、日本を代表するハイテク企業の経営者ら約150名が参集。同社の創立50周年を祝った。

白子町といえば、九十九里のイワシ漁の発祥の地であり、今日ではテニスのメッカとして知られるが、この日ばかりは、世界の“最先端技術コミュニティー”に変貌した。

祝賀会の会場となった「青松庭 白砂」

祝賀会の会場となった「青松庭 白砂」

創立50周年記念・新工場落成披露祝賀会

創立50周年記念・新工場落成披露祝賀会

演壇上で挨拶する森川社長

演壇上で挨拶する森川社長(現会長)

祝賀会に先立ち、挨拶に立った森川孝行社長(現会長)は創業からの50年を振り返りながら、感謝を述べた。

この謝辞の中に、“森川経営”の真髄が垣間見られた。
「本日は、ご多忙中にもかかわらず、遠方より、弊社の50周年記念式典ならびに新工場落成披露にご出席をいただき、まことに、ありがとうございます。
私がこの仕事に携わったのは23歳の時です。右も左も分からない中、皆さまのご指導、ご鞭撻により、本日、50年を迎えることができました。
この場をお借りし、改めて、厚くお礼申し上げます。この半世紀の間、私を育てて下さいまして、ありがとうございました」
「今日までを振り返りますと、4回ほど、主要取引先が変わり、その都度、手がける製品も変化しました。よくぞ、ここまでやって来たと痛感しています。
会社を始めた1、2年は、ペンチレス旅盤で小さな電子部品を作っておりました。ブレスの金型メーカーから、プレス金型をやってみないかと言われ、少し経験がありましたので、その金型を7、8年やりました。そうこうしている内に10年がたちました。
従業員も増えたことから、地元に優良電子部品メーカーがありましたので、そこへ営業に行きました。大変、忙しく仕事をされており、すぐに仕事をいただきました。この仕事は10年間続きました。これにより、今日の弊社の成長基盤が確立したと思います。大変、感謝しております」

森川社長(現会長)の経営模索は続く

「創業して20年が経つと、資金的にも少し余裕が出てきました。かねてより、少し付加価値の高い仕事を手がけたいと思っていたところ、日刊工業新聞を読むと、半導体についての記事が取り上げられていました。 “半導体とはなんだろう”-自分なりに調べますと、日本の基幹産業になるとともに、世界で急成長することが分かりました。
そこで、これに関係する企業を調べますと、埼玉県に半導体の検査装置メーカーがあることが分かり、そこへ営業に行きました。すると、忙しく仕事をしており「すぐに試作品を作ってみないか」と勧められました。急いで、試作品を作って持っていくと、もう一度、試作品を作ってこいと言われました。
二度目は検査データを添えて持って行きますと、それが気に入られたのかどうかは分かりませんが、仕事がいただけるようになりました。
これを1、2年手がけていると、大変、品質管理に厳しい会社で、QCD(品質、コスト、納期)もかなり進んでいることが分かりました。
これからも、この会社とお付き合いしていくには、今の工場ではダメだなという思いが強まりまして、1989年に、新工場の建設を決意。翌年に完成させました。
その際、工場内の一部を設定温度に対して±0.5℃の高精度の恒温恒湿にし、そこに検査装置を導入しました」

1989年といえば、バブル景気がはじける矢先の時期。多くの経営者が設備投資をためらう中、森川社長は先を見据えて、設備投資に踏み切った。

「1989年にバブルがはじけ始めたので、これはちょっとやりすぎかなあと思いましたが、思い切って設備投資を行いました。
この結果、1990年、1991年、1992年、1993年、1994年、1995年にわたり、年々売り上げが倍近く増加しました。今日の弊社の成長は、この会社さまのおかげであると感謝しております。ちなみに、その当時の、弊社の売り上げの85%を1社で占めました」

顧客の新規開拓はエンドレス。決して満足することなく、森川社長(現会長)はどん欲に、顧客を開拓した。

「あるとき、日刊工業新聞を読んでいると、光ファイバーのことが掲載されていました。これはなんだろうと、また調べましたら、千葉県内に大手企業があることが分かりました。
“思い立ったら即実行”と、ばかりに、営業に行きました。この企業も忙しく仕事をされていました。
今度は試作品ではなく、この製品を作ってみろと言われ、2、3ヶ月で、試作品を作って納品すると、1、2年で急激に立ち上がり、5、6年で受注が急落していくことになりました。
一方、これと並行して、大阪のレンズメーカーから仕事が入ってきました。この仕事は光ファイバーとは異なり、高い精度と高度な品質保証が要求されました。これに対処するには、従来の工作機械では対応できないため、高精度なマシニングセンター(MC)2台と東京の三鷹光器製の非接触三次元測定器を設備して要求精度をクリアしました。
そして、この時期に、高精度加工から超精密加工が見えてきました。この2社で、当時の売り上げの85%を占めました。
こうした中で、受注が急激に落ち込んでしまいました。“さて、どうしようか”-と。思案をしていると、液晶製造装置メーカーと出会いました。この出会い後、1、2年は順調に受注が続きました。ところが、この仕事も急激に立ち上がると、4、5年で急落という流れでした。
この時ばかりは、心底、参りました。2、3年くらいは夜なべで対処していましたが、以降、4、5年、徹夜に次ぐ徹夜という毎日が続きました。
この結果、売り上げは8億円、9億円、11億円と増えました。しかし仕事が急激に増えると、急激に落ちる、そんな仕事でした。

  • 『1975年、森川社長が30歳の時に設備した平面研削盤』の画像

    1975年、森川社長(現会長)が30歳の時に 設備した平面研削盤

  • 『1977年に設備した6尺旋盤』の画像

    1977年に設備した6尺旋盤

  • 『同年に設備したフライス盤』の画像

    同年に設備したフライス盤

  • 『1978年に設備したNCフライス盤』の画像

    1978年に設備したNCフライス盤

  • 『1980年、森川社長が35歳の時に同業他社に先駆けて設備したマシニングセンター』の画像

    1980年、森川社長が35歳の時に同業他社に先駆けて設備したマシニングセンターおよび翌1981年に設備した2代目のマシニングセンター

  • 『森川社長が44歳の1989年、精密加工に注力する一環としてドイツのカールツァイス社を見学(前列左から2人目が本人)』の画像

    森川社長が44歳の1989年、精密加工に注力する一環としてドイツのカールツァイス社を見学(前列左から2人目が本人

  • 『本社工場に設置した検査装置』の画像

    本社工場に設置した検査装置

  • 『1975年、森川社長が30歳の時に設備した平面研削盤』の画像

    2019年2月に欧州原子核研究機構(CERN)の研究者が調査のために「超精密工場」を訪問(前列左端 が本人、その隣が大谷法子現社長)

the next phase…

独自の切削加工技術が安定経営を導く

「心身ともに疲労が蓄積し、限界を感じて、安定受注を求めていた頃、日刊工業新聞社の千葉支局の方から、千葉県内の特殊ガラス部品メーカーを紹介されました。紹介後、1、2年でレンズ金型製造の仕事がいただけるようになり、それ以降、注文が増加していきました。
現在、取引が始まって9年になりますが、安定した仕事をいただいており、大変、助かっております。ちなみに、この仕事が全売上高の35%を占めます。
それともう一つ。高エネルギー加速器研究機構の研究者の先生方から超精密技術を教わりながら、大手企業を紹介していただきました。現在、順調に売り上げが伸びております。全売上高の30%弱くらいになりまして、安定した仕事になっております。

次世代に向けて、超精密加工の戦略工場建設

社員の集合写真

「独自の超精密切削加工技術を進化させる中、近い将来、本格化するであろう超精密加工時代に対処するには、今の工場では5年先は無理だろうと感じていました。
それに、若い優秀な人材がいますので、もっと成長してもらいたいと願い、思い切って設備投資をしようと決断しました。設備投資に際し、政府や自治体の中小企業支援策を調べると、設備投資の補助金制度や固定資産税の優遇税制などの施策があることを知り、これを利用して建設しました。
本日、皆様にご視察していただいた工場です。現状に甘んじることなく、まだスペースに余裕がありますので、順次、仕事の内容に応じて、高精度、超精密機械を設備していく予定です。
さらに、新工場が軌道に乗りましたら、3、4年後、敷地内に、次の成長に向けて、一層グレードの高い工場を建設する計画です。
今後も、真摯な気持ちを持ちながら、謙虚に対応して行きますので、どうか私をはじめ従業員をよろしくお願いいたします。
本日はありがとうございます」

森川社長(現会長)は創業時からの経営の軌跡を感謝とともに端的に語り大喝采を浴びた。

ページアップボタン